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27 juillet 2020

ヨハネ 6章22 節

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27 juillet 2020
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聖書の最初の書物「創世記」の冒頭部分にはエデンの園の記述があります。この園には命の木、善悪を知る木、園を横切って流れる川がありました。「創世記」では、天地創造の後に人間の罪の堕落が描かれました。神様は人間が「善悪を知る木」から取って食べることを禁じました。エバとアダムはこの神様の命令を破ってしまったために、楽園追放の処分を受けました。それからというもの罪が人間を捕縛して屈服させ、またこの世を操るようになってしまいました。「ヨハネの黙示録」22章1~5節は、神様がかつて造られたこの楽園を描写しています。ですから、旧約聖書の天地創造を念頭においてこれらの節を学ぶのが適切なやりかたです。 1節には、新しいエルサレムを流れている「命の水の川」の記述があります。おそらくこの川は新世界で実現する「永遠の命」を描いているのでしょう。ヨハネはまた「命の木」を見ます。この木の葉から諸国民は健康を得ると言われています。つまり、天国に入った人々は健康になる、ということです。この世には苦痛や窮乏や病気が存在します。しかし天国にはありません。善悪を知る木についてヨハネは何も語っていません。この木はそもそも新世界には存在しないからです。従って、新世界で罪の堕落がふたたび繰り返される可能性はまったくないことになります。天国での喜びには終わりがありません。 罪の堕落はすべての人間に及ぶ呪いを意味していました。この呪いを私たちは日々実感しつつ生活しています。ヨハネによれば、新世界では呪いの束縛はもはや解けており、罪の堕落とその顛末(「創世記」3章17~19節)の悪影響が失われたため、この世での苦しみもまたすっかりなくなっているのです。 この世では、人間は神様の御顔を直視することに耐えられません。モーセはそれを望んだこともありましたが、「あなたは私の顔を見ることができません。なぜなら、私を見た人間は一人として生きていることができないからです」(「出エジプト記」33章20節)、と神様は言われました。ところが、新世界ではこのことも可能になります。4節は、信じることが見ることに変わるという約束を与えます。それが実現するとき、もはや不信仰が人間を悩ませることもなくなります。「心の清い人は幸いです。彼らは神様を見ることができるからです」(「マタイによる福音書」5章8節)、というイエス様の約束が新しいエルサレムで成就されるのです。 「ヨハネの黙示録」の5章の冒頭からはじまった長大な一連の箇所がついに22章5節で閉じられました。ヨハネは一群の幻の啓示を受け、最後には新世界を見ることもできました。この間、私たちは時間の世界から永遠の世界までを駆け抜けてきたことになります。そして今「ヨハネの黙示録」の終結部がはじまります。それは五つの部分に分けられます。 ヨハネは、「彼に語られた言葉は真であり、それゆえ信頼に値するものである」、という声を耳にします。神様がその信頼性を保証されたのですから、ヨハネに示された言葉には全幅の信頼を置くことができます。真理そのものである神様は決して偽りを言われません。 6節は、神様から遣わされた預言者は勝手な話をしないものであることを、読者に思い起こさせます。神様の御霊が神様の遣わした預言者の中で働きかけてくださるので、預言者は神様から受けた教えを語るのです。ヨハネは神様の遣わした預言者でした。彼は何を言うべきかを神様から教えていただきました。それゆえに、彼のメッセージは信頼できるのです。 7節は、「ヨハネの黙示録」で6回目の「幸いなるかな」という宣言です。「ヨハネの黙示録」を真摯に受け入れる者に対して、イエス様は「幸いなるかな」と言われます。イエス様は王の中の王としていつか必ずこの世を裁くために来られることを「ヨハネの黙示録」は読者に語ります。このことを本気で受け入れる者は「幸いなる者」として祝福されるのにふさわしい存在です。 19章10節と同じような状況がここでは語られています。ヨハネは自分に「ヨハネの黙示録」の描写する数々の幻を示した天使の前にひれ伏します。しかし、ヨハネが自分に対してひれ伏すことを天使は厳しく禁じます。天使はモーセの第一戒の意味をよく知っているからです。 天使を神様に比肩する存在とみなす異端の教えは紀元1世紀頃多くの教会に広がりました。この異端についてここで警鐘が鳴らされているのです。天使は神様の被造物であり、それを造り主と同じ位置にまで持ち上げることは許されません。おひとり神様のみに私たちはひれ伏しつつ祈るべきなのです。 イエス様は「ヨハネの黙示録」での最後の話をなさいます。はじめにイエス様は、ヨハネがこの書物のメッセージをあらゆるところに広く伝えていくことをお命じになります。興味深いことに、「ダニエル書」にはこれと正反対のケースが出てきます。「書物は後になってから公にすべきだが、今はまだ隠しておくように」、という命令をダニエルは受けます(「ダニエル書」8章26節)。これら相反するようにみえるふたつの命令は次のように説明できるでしょう。神様の救いの歴史において、ダニエルの時代は彼に示された幻を秘密にしておいたほうがよいと神様が判断された段階に相当します。ところがヨハネの時代には状況が変わっていました。この時点では、地上での活動を終えて天に帰られた神様の御子が地上に再臨する時がすぐそこまで近づいています。神様の救いの歴史は、ヨハネが見聞きしたことを私たち皆に知らせるべき段階に達していたのです。 イザヤ書55章6~13節 ルカ福音書22章31~34節: 2003/04/13: 一人も失わないで: 詩編78編23~25節 ヨハネ福音書6章34~40節: 2003/05/11: なぜこのひと女を困らせるのか: 詩編86編1~7節 マルコ福音書14章3~9節: 2003/06/15: 主の慈しみに生きる人: 詩編31編15~25節  11節は難解な箇所です。不義な者はさらに不義を重ねて生きていくように勧められ、聖なる者はより聖なる道を歩んでいくように命じられています。これはどういう意味でしょうか。「ヨハネの黙示録」はイエス様を知らない人に対してではなく、キリスト信仰者に宛てて書かれています。この箇所は、不信仰の中に留まり不義の生活を送るように、という勧めではありません。その目的は神様の教会に次のように語りかけることです。

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ヨハネ 6章22 節

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